計見一雄が引用するリベの主張で「非選択が自由意志を支えるものだ」という論文があるそうだと「ノーテンキ」というエントリーに書いたが、このほど読了した酒井邦嘉著「言語の脳科学」において、同じようなことが書かれているくだりに出会った。(同書210ページ)
人間の言語野では、入力制限のためか、それとも言語野固有の原因により、大脳皮質一般の機能が制限されて言語しか処理できないように特殊化していると考えてみよう。機能の一部が制限された方が進化的に高等だというのは、一見無理があるように思えるかもしれないが、実は理にかなっている。それは抑制性の機能を持つ遺伝子(他の遺伝子の発現を制御する遺伝子のひとつ)が新しくつけ加わったためだと考えられるからである。突然変異によって、もともとチューリング・マシン並みの能力を持っていた大脳皮質の機能の一部が抑制されたとする。その結果が文脈依存文法の能力だとすれば、自然言語に最適な計算ができるようになったことが理解できる。
したがって、これら二つの記述から想定できるのは「ノーテンキ」でも書いたように、人間の能力の限界は観察されるよりはるかに大きくて、ただ、目前の局面にふさわしいたったひとつの行動を選択するということのために、考えられるあらゆる可能性が背後でシミュレーションされているということなのだろう。
行動を抑制する遺伝子の存在が多様性の発現の基にあるというこれらの研究は非常に説得力がある。
2007-09-04
2007-08-03
内と外
内と外を区別することが生命にとって重要なことであり、かつ医療にとっても解明するべきポイントとなりつつあることが「新しい薬をどう創るか」(ブルーバックス)で述べられている。
生体膜は単なる脂質の膜ではなく、液状の物質を仕切るとともに、特定の物質を透過させたり、外界の情報を感知するなど特殊な機能をもっているそうだ。膜たんぱく質の立体構造分析に対しては最近の20年間に3度ものノーベル賞(光合成、ATP合成酵素、イオンチャネル)が与えられたことから、研究の重要性と難易度の高さが覗える。
そして、ヒトゲノム情報のなかでもGタンパク質共役型受容体(GPCR)は細胞膜を7回貫通する特徴的な分子構造を持った、薬物治療標的としては最も重要なものということだ。ヒトゲノムには約700~800のGPCR遺伝子が存在すると考えられているが、現在までにその中で約150のGPCRでのみ受容体を活性化する物質(リガンド)との対応が見つかっているだけという状態だそうだ。残りのGPCRはリガンド、生理的機能が不明な受容体(オーファン受容体)で、新規の創薬標的となる可能性が高いことから、重要な研究分野となっている。
しかし、膜輸送は生体膜を研究対象としているだけに、現在利用できる測定ツールは放射性元素、光学プローブ、電流測定の3つだけである。これがスクリーニングするうえで非常に手間がかかり、研究スピードの上がらないひとつの原因でもあるそうだ。
ところで、この7回貫通するという表現を見た瞬間、あの有名な「ケーニヒスベルグの7つの橋問題」をなぜか思い出した。何の根拠もなく、内と外を確実に貫通する通路としてGPCRは神秘的な7という数を持っており、一筆書きのように一気に情報の伝達をおこなうというイメージを持った。
生体膜は単なる脂質の膜ではなく、液状の物質を仕切るとともに、特定の物質を透過させたり、外界の情報を感知するなど特殊な機能をもっているそうだ。膜たんぱく質の立体構造分析に対しては最近の20年間に3度ものノーベル賞(光合成、ATP合成酵素、イオンチャネル)が与えられたことから、研究の重要性と難易度の高さが覗える。
そして、ヒトゲノム情報のなかでもGタンパク質共役型受容体(GPCR)は細胞膜を7回貫通する特徴的な分子構造を持った、薬物治療標的としては最も重要なものということだ。ヒトゲノムには約700~800のGPCR遺伝子が存在すると考えられているが、現在までにその中で約150のGPCRでのみ受容体を活性化する物質(リガンド)との対応が見つかっているだけという状態だそうだ。残りのGPCRはリガンド、生理的機能が不明な受容体(オーファン受容体)で、新規の創薬標的となる可能性が高いことから、重要な研究分野となっている。
しかし、膜輸送は生体膜を研究対象としているだけに、現在利用できる測定ツールは放射性元素、光学プローブ、電流測定の3つだけである。これがスクリーニングするうえで非常に手間がかかり、研究スピードの上がらないひとつの原因でもあるそうだ。
ところで、この7回貫通するという表現を見た瞬間、あの有名な「ケーニヒスベルグの7つの橋問題」をなぜか思い出した。何の根拠もなく、内と外を確実に貫通する通路としてGPCRは神秘的な7という数を持っており、一筆書きのように一気に情報の伝達をおこなうというイメージを持った。
2007-07-14
メタファーが言うこと
メタファーが字義的意味とともにもうひとつのメタフォリカルな意味をもつという見解は、デヴィッドソンによると誤りだそうだ。
冨田恭彦「アメリカ言語哲学入門」に紹介されたデヴィッドソンの主張は、メタファーを通常のコミュニケーションの一形態とさえ見ることを拒否している。
デヴィッドソンによれば、メタファーはその字義的意味以上のことは何も言わない。言葉が意味するものと言葉の使用によってなされるものの区別がよりどころとなる。メタファーはもっぱら使用の領域で言葉や文の想像力豊かな使用によって成就され、それらの言葉の通常の意味に完全に依存しているというのだ。
これは、いわば常識を逆転した刺激的な発想だ。これを理解する人間の不思議さが際立ってくるからなおさらだ。
冨田恭彦「アメリカ言語哲学入門」に紹介されたデヴィッドソンの主張は、メタファーを通常のコミュニケーションの一形態とさえ見ることを拒否している。
デヴィッドソンによれば、メタファーはその字義的意味以上のことは何も言わない。言葉が意味するものと言葉の使用によってなされるものの区別がよりどころとなる。メタファーはもっぱら使用の領域で言葉や文の想像力豊かな使用によって成就され、それらの言葉の通常の意味に完全に依存しているというのだ。
これは、いわば常識を逆転した刺激的な発想だ。これを理解する人間の不思議さが際立ってくるからなおさらだ。
レーモンルーセル
レーモンルーセルという作家の「アフリカの印象」という作品を読んだが、異様な作品だ。
会話がまったくない、生命に対する生の感覚がない、音はあるが、流れる音がない。すべてが絵画的で、読む者に緊張を強いる書物だ。想像力の欠如のような場面でありながら不思議と生々しい。夢に出てくるような場面かというと現実的なところがないので私にとっては夢に出てきそうもない。もっとも夢自体私はほとんど見ないのだが。
これはある意味で実験的ではあるが、小説の形式にはなじまないものではないだろうか。評者の言っているように「神話の創出」というようなものではないだろう。とにかく刺激的でひっかかるところの多い小説だ。
会話がまったくない、生命に対する生の感覚がない、音はあるが、流れる音がない。すべてが絵画的で、読む者に緊張を強いる書物だ。想像力の欠如のような場面でありながら不思議と生々しい。夢に出てくるような場面かというと現実的なところがないので私にとっては夢に出てきそうもない。もっとも夢自体私はほとんど見ないのだが。
これはある意味で実験的ではあるが、小説の形式にはなじまないものではないだろうか。評者の言っているように「神話の創出」というようなものではないだろう。とにかく刺激的でひっかかるところの多い小説だ。
2007-06-19
合理性に関する主張
アリス・W・フラハティの「書きたがる脳」は刺激的で痛々しい書物だ。
彼女の納得している合理性に関する記述。
「以前の私には合理性が欠けていた」ということをこう表現している。
いまのわたしには美的、科学的なインスピレーションと宗教的啓示、さらには精神病の状態には何が共通しているか、以前よりもよくわかる。発作が起こる前には、これらはすべてきちんと区切られて別々に存在していた。わたしはどうやってこの知識を得たのか?本書に記した研究によって---だが同時にわたしの身体が、心が、中脳がそれを知っていたから---わかったのであり、それは以前よりもわたしの皮質に大きな影響を与えている。もちろんこれは科学者の考え方には似つかわしくない。できるだけ以前のようなまじめな考え方をしようと努力しているが、もう自分を完璧に科学者とは感じられず、悲しみに満たされると同時にわくわくする。
インスピレーションにより、内部的でもあり、外部的でもある存在を体験するということが、人の呼吸と同期した営みとして合理的な美しさの獲得に資するというのが彼女の言いたいことのようだ。
すなわち、合理的ということは区別した体系的な知にあるのではなく、納得できる体験があってはじめて合理的な理解につながるということのようだ。
中沢新一の若いころの体験を髣髴とさせる生々しい筆致で、たしかに書きたいことは一気に訪れるのだろうということがよくわかる。
彼女の納得している合理性に関する記述。
「以前の私には合理性が欠けていた」ということをこう表現している。
いまのわたしには美的、科学的なインスピレーションと宗教的啓示、さらには精神病の状態には何が共通しているか、以前よりもよくわかる。発作が起こる前には、これらはすべてきちんと区切られて別々に存在していた。わたしはどうやってこの知識を得たのか?本書に記した研究によって---だが同時にわたしの身体が、心が、中脳がそれを知っていたから---わかったのであり、それは以前よりもわたしの皮質に大きな影響を与えている。もちろんこれは科学者の考え方には似つかわしくない。できるだけ以前のようなまじめな考え方をしようと努力しているが、もう自分を完璧に科学者とは感じられず、悲しみに満たされると同時にわくわくする。
インスピレーションにより、内部的でもあり、外部的でもある存在を体験するということが、人の呼吸と同期した営みとして合理的な美しさの獲得に資するというのが彼女の言いたいことのようだ。
すなわち、合理的ということは区別した体系的な知にあるのではなく、納得できる体験があってはじめて合理的な理解につながるということのようだ。
中沢新一の若いころの体験を髣髴とさせる生々しい筆致で、たしかに書きたいことは一気に訪れるのだろうということがよくわかる。
2007-06-07
教育目標
フランク・ウイルソン「手の500万年史」に子供の認識の発達をどうやって促進するかのヒントが書かれている。たいへん参考になる。以下部分的に引用する。(邦訳322ページ、330ページ)
カナダの教育家キーラン・イーガンは「教育を受けた心」のなかで、どんな教育改革戦略も、長い教育史の結果に取り組まざるを得ないと指摘する。この教育史の期間に、3つの教育目標が継承されてきた。
若者を成人社会の現在の規範と慣例に適合させる必要があること。若者の思考を世界の現実と真実に確実に順応させる知識を教え込まなければならないこと。個々の生徒の個人的な潜在能力の発達を促進すべきであることの3つである。
イーガンは3つの目標が等しく望ましいことに同意する。そして、教育組織に対する義務として見ると、あいにくと3つの目標はまた相互間に矛盾するという。教育組織は、現代の教育慣行を補強する「三大理念」に固有の矛盾を解決できないと主張している。
かれはこの袋小路を包囲する方法として子供に対する教師のアプローチを修正し、認識の発達や機能の連続的な順序と階層の両方に順応することを提案する。
イーガンはとりわけ人間の進化と文化史が、子供の認識の発達を促進する枠組みを提供すると考える。そして、教師は人間の文化が「理解の種類」という形式で蓄積したものを若者たちのために活用できるという。
イーガンの考えでは、知的発達には「ある人間が成長する社会で使用できる知的道具の役割の理解が必要になる」それぞれの社会で発見される道具は、順を追って高くなる意味で、身体的理解、神話的理解、非現実的理解、哲学的理解、反語的理解という順序になる。これらの異なる種類の理解には、暗に人間の思考能力の進歩が意味されている。イーガンはマーリン・ドナルドの挿話的文化というモデルを、ミメシス文化、神話的文化、理論的文化に割り振りする。だからかれは、われわれが理解のより高い形式に移行するにつれ、より低い形式を捨て去ることはないと提唱する。
カナダの教育家キーラン・イーガンは「教育を受けた心」のなかで、どんな教育改革戦略も、長い教育史の結果に取り組まざるを得ないと指摘する。この教育史の期間に、3つの教育目標が継承されてきた。
若者を成人社会の現在の規範と慣例に適合させる必要があること。若者の思考を世界の現実と真実に確実に順応させる知識を教え込まなければならないこと。個々の生徒の個人的な潜在能力の発達を促進すべきであることの3つである。
イーガンは3つの目標が等しく望ましいことに同意する。そして、教育組織に対する義務として見ると、あいにくと3つの目標はまた相互間に矛盾するという。教育組織は、現代の教育慣行を補強する「三大理念」に固有の矛盾を解決できないと主張している。
かれはこの袋小路を包囲する方法として子供に対する教師のアプローチを修正し、認識の発達や機能の連続的な順序と階層の両方に順応することを提案する。
イーガンはとりわけ人間の進化と文化史が、子供の認識の発達を促進する枠組みを提供すると考える。そして、教師は人間の文化が「理解の種類」という形式で蓄積したものを若者たちのために活用できるという。
イーガンの考えでは、知的発達には「ある人間が成長する社会で使用できる知的道具の役割の理解が必要になる」それぞれの社会で発見される道具は、順を追って高くなる意味で、身体的理解、神話的理解、非現実的理解、哲学的理解、反語的理解という順序になる。これらの異なる種類の理解には、暗に人間の思考能力の進歩が意味されている。イーガンはマーリン・ドナルドの挿話的文化というモデルを、ミメシス文化、神話的文化、理論的文化に割り振りする。だからかれは、われわれが理解のより高い形式に移行するにつれ、より低い形式を捨て去ることはないと提唱する。
2007-05-22
語ることと示すこと
命題は記述されるべき事実の経験的内容についてなら「語る」ことができる。しかし、その形式的構造、すなわち論理形式については「示す」ことしかできない。
ウィトゲンシュタインはアスペクト知覚において、われわれは対象の色や形についてなら「語る」ことはできるけれども、他方それに内在する有機的体制については「示す」ことしかできないと指摘している。
事例として、アスペクトの転換に際し、それまでは模写ができてしまえば無用の説明と思われ、また実際そうであったものが、可能な唯一の体験表現になってしまうと述べている。
そして、野家啓一はその著書「科学の解釈学」において、R・ペンローズやR・ドーキンスを痛烈に批判している。
曰く、人間の「自由意志」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界に見られる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などのなかに、われわれはまさに20世紀的な「俗悪さ」の一端を嗅ぎ付けることができると。
ウィトゲンシュタインはアスペクト知覚において、われわれは対象の色や形についてなら「語る」ことはできるけれども、他方それに内在する有機的体制については「示す」ことしかできないと指摘している。
事例として、アスペクトの転換に際し、それまでは模写ができてしまえば無用の説明と思われ、また実際そうであったものが、可能な唯一の体験表現になってしまうと述べている。
そして、野家啓一はその著書「科学の解釈学」において、R・ペンローズやR・ドーキンスを痛烈に批判している。
曰く、人間の「自由意志」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界に見られる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などのなかに、われわれはまさに20世紀的な「俗悪さ」の一端を嗅ぎ付けることができると。
恢復期
恢復期についてのアンリ・ボスコの覚書は幸福で健康なイマージュに満ちているようだ。
ガストン・バシュラールの「夢想の詩学」にアンリ・ボスコの「ヒヤシンス」という物語のことが書かれている。
すばらしい文章なので、少し長いがそのまま引用する。
わたしは意識を失ってはいなかった。しかしあるときは、生命の最初の供物、つまり外界からやってきた若干の感覚を摂取していたし、またあるときは内面の実体を食物としていた。それは少しずつ蓄積した稀有な実体ではあったが、新しくもたらされたものからは何も負ってはいなかった。というのは、もしわたしの本当の記憶からすべてのことが追放されたとしても、その代わり、想像的な記憶のなかですべてが途方もなく新鮮によみがえるはずだからである。忘却によって不毛になった広大な広がりの真只中で、あのすばらしく楽しい幼少時代、わたしが勝手に作りあげたのだと昔は思っていた幼少時代が、たえまなくずっと光を放っているのだった。・・・というのも、それはわたしの青春なのだった。わたしのもの、わたしの手で作りあげた青春なのだ。苦しみつつたどられた幼少時代が外側から私におしつけたあの青春ではなかった。
そして、バシュラールは出来事のない生を究めようと言っている。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は精神的外傷となりかねない。出来事はわたしたちのアニマの、内面にあって、夢想の中でしかよく生きられない女性的存在の、自然な平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。
これらは、恢復期が必要としている幼少時代の夢想と一体となることの重要性を正しく指摘している。
ガストン・バシュラールの「夢想の詩学」にアンリ・ボスコの「ヒヤシンス」という物語のことが書かれている。
すばらしい文章なので、少し長いがそのまま引用する。
わたしは意識を失ってはいなかった。しかしあるときは、生命の最初の供物、つまり外界からやってきた若干の感覚を摂取していたし、またあるときは内面の実体を食物としていた。それは少しずつ蓄積した稀有な実体ではあったが、新しくもたらされたものからは何も負ってはいなかった。というのは、もしわたしの本当の記憶からすべてのことが追放されたとしても、その代わり、想像的な記憶のなかですべてが途方もなく新鮮によみがえるはずだからである。忘却によって不毛になった広大な広がりの真只中で、あのすばらしく楽しい幼少時代、わたしが勝手に作りあげたのだと昔は思っていた幼少時代が、たえまなくずっと光を放っているのだった。・・・というのも、それはわたしの青春なのだった。わたしのもの、わたしの手で作りあげた青春なのだ。苦しみつつたどられた幼少時代が外側から私におしつけたあの青春ではなかった。
そして、バシュラールは出来事のない生を究めようと言っている。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は精神的外傷となりかねない。出来事はわたしたちのアニマの、内面にあって、夢想の中でしかよく生きられない女性的存在の、自然な平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。
これらは、恢復期が必要としている幼少時代の夢想と一体となることの重要性を正しく指摘している。
2007-04-27
ノーテンキ
計見一雄の「脳と人間」を読んでいると、私も精神科の医者が勤まるのではないかとの錯覚に陥る。精神分裂病(統合失調症)のさまざまな事例を読んでいて、どこにでもある話だという気がしてくるから不思議だ。計見が書いているように、現代という時代がこの病気に冒されつつあるのかもしれない。
ところで、彼が引用するリベの「脳は運動器官だ」という主張は、大脳皮質前頭前野での運動スキームの形成に関する論文で、行為の意志的決定は用意された行動スキームを、運動野へつなげて実行に移すか否かの選択によるとあるそうだ。そうして、その選択はスキームの<[非選択(Veto・・拒否)]>によるとある。非選択が自由意志を支えるものだという論文らしい。
すなわち、「継続する意志とは継続を止めることを選択しない意志」ということになる。努力するのではなくて、努力することを止めることを否定するという形式が意志の働きとして原型だというのである。
そして、彼が強調するようにここでなにより重要なのは「やろうと思えばできた」というところだ。つまり、ある行動計画はできており、道徳的意識か、規範意識か、実現可能性か等々いずれかの理由により選択されなかったというのだ。常に運動の中ではカウンタープランと引き比べて現実の行動の選択がなされているということを言っている。
そして、ポジティブシンキングは大流行だがカウンタープランを欠いた思考はただのノーテンキだといっている。
ところで、彼が引用するリベの「脳は運動器官だ」という主張は、大脳皮質前頭前野での運動スキームの形成に関する論文で、行為の意志的決定は用意された行動スキームを、運動野へつなげて実行に移すか否かの選択によるとあるそうだ。そうして、その選択はスキームの<[非選択(Veto・・拒否)]>によるとある。非選択が自由意志を支えるものだという論文らしい。
すなわち、「継続する意志とは継続を止めることを選択しない意志」ということになる。努力するのではなくて、努力することを止めることを否定するという形式が意志の働きとして原型だというのである。
そして、彼が強調するようにここでなにより重要なのは「やろうと思えばできた」というところだ。つまり、ある行動計画はできており、道徳的意識か、規範意識か、実現可能性か等々いずれかの理由により選択されなかったというのだ。常に運動の中ではカウンタープランと引き比べて現実の行動の選択がなされているということを言っている。
そして、ポジティブシンキングは大流行だがカウンタープランを欠いた思考はただのノーテンキだといっている。
2007-03-27
ポリアンナ効果
先日から紹介している中沢新一に加え、梅田さんの話や、小宮山さんの例を引き合いに出すまでもなく、人は肯定的な評価を好む。これを「ポリアンナ効果」と言うそうだ。エリノア・H・ポーターの人気小説の主人公「ポリアンナ」からとられており、おとうさんに教えてもらった「よかった探し」でなんでも喜ばしいことを探す肯定的評価の代名詞だ。これを標榜する人には自らを反対の性格という人もいるが、それだけ社会的に否定的評価が好まれず否定的評価が否定的に(すなわち肯定的評価に)意識されている証でもあるのだろう。誤解を避けるために付け加えれば、ここでは、なんでも「そうだ、そうだ」という人たちのことを話題にしている。別の言い方をすれば「他人志向型」。
クリス・マクマナスの「非対称の起源」を読んでいると、左利きの人に対する過去の社会的偏見は相当強烈であったようだ。1950年から1961年までアンケートにより実施した「言語の土地台帳」という英国リーズ大学の調査では、(質問者は片方の手を見せて尋ねる)「何にでもこの手を使う人のことを〇〇と呼びます」という質問に左手と右手の間にはびっくりするほどの違いがあった。(大半が60歳以上の)聞かれた人のほとんどが、右手を使う人のことを右利きと呼ぶだけなのに、左手の場合には全部で87もの呼び方が記載されているのだ。
これらのことは、同書にも述べられているが「烙印」といういまわしい概念によって社会学的には解釈されている。そしてセンシティブな言葉による表現は、現代の社会では本人がそう感じれば、もしくはそう思えばその言葉は否定的表現となるという解釈が市民権を得ている。これがはじめに述べた否定的評価が否定的に意識されているということの背景にあるのだろうと思う。
これらは、倫理的なものというよりも、私には何というか息の詰まりそうな話である。なにか正しさというものをはきちがえているような気がしてならない。付和雷同を排し、主体的意見を尊重するといえば聞こえはよいが・・とりあえずという判断にすぎず、熱くなって噴出してくる自分の意見ではないところが寂しい。
クリス・マクマナスの「非対称の起源」を読んでいると、左利きの人に対する過去の社会的偏見は相当強烈であったようだ。1950年から1961年までアンケートにより実施した「言語の土地台帳」という英国リーズ大学の調査では、(質問者は片方の手を見せて尋ねる)「何にでもこの手を使う人のことを〇〇と呼びます」という質問に左手と右手の間にはびっくりするほどの違いがあった。(大半が60歳以上の)聞かれた人のほとんどが、右手を使う人のことを右利きと呼ぶだけなのに、左手の場合には全部で87もの呼び方が記載されているのだ。
これらのことは、同書にも述べられているが「烙印」といういまわしい概念によって社会学的には解釈されている。そしてセンシティブな言葉による表現は、現代の社会では本人がそう感じれば、もしくはそう思えばその言葉は否定的表現となるという解釈が市民権を得ている。これがはじめに述べた否定的評価が否定的に意識されているということの背景にあるのだろうと思う。
これらは、倫理的なものというよりも、私には何というか息の詰まりそうな話である。なにか正しさというものをはきちがえているような気がしてならない。付和雷同を排し、主体的意見を尊重するといえば聞こえはよいが・・とりあえずという判断にすぎず、熱くなって噴出してくる自分の意見ではないところが寂しい。
2007-03-24
信ずるところを進むということ
梅田さんの記事と、対談した小宮山さんの卒業式告辞をみると同じことを言っている。「信ずるところを進む」ことの重要性だ。そして、梅田さんのBLOGへの反響を見てもおそらくこれは大半の人が(とくに日本人が)賛同する精神的な対峙の仕方なのだろう。
私は、この双方の話を見ていてこれは技術者の世界の話ではないか、あるいは企業でいえばメーカーの話なのではないかという気がしている。戦後の60年間、日本の科学技術研究に関する評価の体制が特に硬直化しており、地道な研究はなかなか評価されにくい土壌があった。これがこの二人の話の背後にあるのではないだろうか。大学という組織、大企業の組織の中で個人の研究や開発意欲を削ぐさまざまな障害が多数あったことと無縁ではないだろう。特に指導的な立場にある教官の権威は絶対だったのだろう。インターネットの時代になって、今世紀に入ってから、欧米の特に米国の個人主義的な自由な研究の空気が充満してきてはじめて、これまでの研究のやり方では窒息すると誰もが感じるようになったのだろう。そういう意味ではこの二人の感覚を否定するものではない。
ところで、そういった歴史の背景を勘案しても、小宮山さんの告辞にある二つ目の話、俯瞰するということのほうが私には一層重要に思える。自らの位置を確認し、定位することだ。これは素直な性格と他人の話をどれだけ理解するかという社会的センスが問われる。身近な指導教育がなければちょっとしたこともわからない。しかし、少し様子が分かってくると、どうも真理は別なところにあるのではないかという疑念が沸いてくる。これまでは情報のソースが限定的だったのでなかなか障壁を突破できなかった。書物や論文ではスピードが限られていたといえるだろう。大量の書物を読んでいても著者の言いたいことをどれだけ真剣にわかろうとしているかという努力にもよったのではないだろうか。
日本の産官学の研究現場ではおそらくこれらの情報障壁のことは誰しも直感的には問題だと従来から気がついている。しかし、日本の社会の研究や開発の構造が情報の横の連携を許さない構造であったということなのだろう。現在はインターネットの時代になって、全ての知識が全世界同時にフラットに共有されるという驚異のニューロンもどきの人類の頭脳統合が実現しているのだ。われわれはその頭脳の真っ只中にいる。アイザック・アシモフが40年以上前に「ミクロの決死圏」として描いたSF小説は今現実になっているのを誰も気がついていないのだろう。我々はまさしく神経腺維の中に生存しているのだ。すなわち、その気になればわれわれは全世界の必要な知識を相応の確実さで入手できる状況にある。
私は、この双方の話を見ていてこれは技術者の世界の話ではないか、あるいは企業でいえばメーカーの話なのではないかという気がしている。戦後の60年間、日本の科学技術研究に関する評価の体制が特に硬直化しており、地道な研究はなかなか評価されにくい土壌があった。これがこの二人の話の背後にあるのではないだろうか。大学という組織、大企業の組織の中で個人の研究や開発意欲を削ぐさまざまな障害が多数あったことと無縁ではないだろう。特に指導的な立場にある教官の権威は絶対だったのだろう。インターネットの時代になって、今世紀に入ってから、欧米の特に米国の個人主義的な自由な研究の空気が充満してきてはじめて、これまでの研究のやり方では窒息すると誰もが感じるようになったのだろう。そういう意味ではこの二人の感覚を否定するものではない。
ところで、そういった歴史の背景を勘案しても、小宮山さんの告辞にある二つ目の話、俯瞰するということのほうが私には一層重要に思える。自らの位置を確認し、定位することだ。これは素直な性格と他人の話をどれだけ理解するかという社会的センスが問われる。身近な指導教育がなければちょっとしたこともわからない。しかし、少し様子が分かってくると、どうも真理は別なところにあるのではないかという疑念が沸いてくる。これまでは情報のソースが限定的だったのでなかなか障壁を突破できなかった。書物や論文ではスピードが限られていたといえるだろう。大量の書物を読んでいても著者の言いたいことをどれだけ真剣にわかろうとしているかという努力にもよったのではないだろうか。
日本の産官学の研究現場ではおそらくこれらの情報障壁のことは誰しも直感的には問題だと従来から気がついている。しかし、日本の社会の研究や開発の構造が情報の横の連携を許さない構造であったということなのだろう。現在はインターネットの時代になって、全ての知識が全世界同時にフラットに共有されるという驚異のニューロンもどきの人類の頭脳統合が実現しているのだ。われわれはその頭脳の真っ只中にいる。アイザック・アシモフが40年以上前に「ミクロの決死圏」として描いたSF小説は今現実になっているのを誰も気がついていないのだろう。我々はまさしく神経腺維の中に生存しているのだ。すなわち、その気になればわれわれは全世界の必要な知識を相応の確実さで入手できる状況にある。
2007-03-08
偉人の旋毛曲り
寺田寅彦は偉人のつむじ曲がりということで「科学上における権威の価値と弊害」を論じているが、これを読んで先日の中沢新一の議論を思い出した。結局、科学はつむじ曲がりが輩出してそれまでの権威を否定することで一層科学らしくなっていったと言えるだろうが、中沢であればこれは単にバランス感覚を回復する正常な反応があらたなものの見方をもたらしたにすぎないと言うのではないかと思った。偉大なつむじ曲がりはそういう意味では無意識にバランスをとる天才だったともいえるだろう。
2007-03-06
勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き
中沢新一の「対称性人類学」によれば、対称性の論理にもとづく社会では「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」といったタイプの人々に対し警戒心を抱いていたと記述されている。その人たちは自分が獲得した富を、自分のために蓄積し、自分のためにだけ消費しようとする傾向があったからだ。神話ではこういう人々を貪欲な動物に喩えて、軽蔑する話がたくさんある。そして対称性の社会の倫理は必死にこの「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」たちの出現を抑えようとしてきたが、資本主義の本格的な稼動が準備された12世紀~13世紀の西欧社会では、あらゆる抵抗をはねのけて、蓄積のための生産や交易をめざす「勤勉な」人々の活動が浮上してくるのを、もう誰も抑えられなくなっていたというのだ。本源的蓄積は実際暴力的手段を通じて実行され、贈与経済のもたらす暖かい共同社会に生きてきた人々は自分たちの住んでいた土地から追い立てられたと分析されている。
そしてまた、中沢は西欧哲学の本質は形而上学であると批判してハイデッガーを引き合いに出し、形而上学からの脱却を目指すべきだと主張している。すなわち、人間はたしかに理性的生物であるが、だからといって必然的に形而上学的生物であると決めつけるのはまちがっている。カントが言うように、形而上学はたしかに人間の本性に属しているだろうけれども、そういった本性があまりに支配力を拡大しすぎると別の理性が働いてきたこともまた真実である。人類はこの意味で進歩したのではなく、形而上学の本性を全面的に発達させ始めたにすぎないのではないかと問うているのだ。
そしてまた、中沢は西欧哲学の本質は形而上学であると批判してハイデッガーを引き合いに出し、形而上学からの脱却を目指すべきだと主張している。すなわち、人間はたしかに理性的生物であるが、だからといって必然的に形而上学的生物であると決めつけるのはまちがっている。カントが言うように、形而上学はたしかに人間の本性に属しているだろうけれども、そういった本性があまりに支配力を拡大しすぎると別の理性が働いてきたこともまた真実である。人類はこの意味で進歩したのではなく、形而上学の本性を全面的に発達させ始めたにすぎないのではないかと問うているのだ。
2007-01-27
位置とドメイン
かつて南方熊楠が没頭した真正粘菌の研究から発展し、古細菌の研究へ至って生命科学の分野では最近めざましい成果が出ている。特に3つのドメインが地球上の生物の系統樹として存在し、これ以外の生命は存在しないという発見は特筆すべきだろう。 ひとつはわれわれ人類の含まれる真核生物、二つ目は原核生物で真正細菌と古細菌に分かれる。古細菌(アーキア)は結局現在の生命全ての始原にあり、全く独立して現在に至るまでその強力な生命力で生き抜いている。おそらく他の2つのドメインを占めている生物が滅亡してもアーキアは生き残るだろう。われわれ人類が生命の中で最も優れていると勘違いし、驕っているのをあざ笑うかのようにアーキアのドメイン(生存領域)は拡張されるだろう。つまるところ、この地球上はドメイン競争の場なのだ。
人類が愚かにもその領土紛争を繰り返している間に、インフルエンザや癌、さまざまな感染症は全ての哺乳類をはじめとする生命の存在領域を奪うだろう。ツボカビが爬虫類の生命を簡単に奪うのも同様な傾向だろう。
生存できるわずかな隙間、そのニッチになんとか生き延びるために人類は苦闘している。インターネットでドメイン競争をしているうちにそれぞれのドメインにあるサイトはウイルスで汚染されているのだ。インターネットの世界と自然の世界のアナロジーは尽きるところがない。そしてこれらを表現する言葉が正しく事態を表現している。だれが表現を考え出したかはわからないが言葉の不思議な力が事態を理解可能にしている。
2チャンネルでひろゆきの自演と思われるドメイン差し押さえが騒がれているが、ドメインを世界規模で考えるよい機会だと思う。インターネットは鳥インフルエンザと同様に国境がない。そこに本質があると言えよう。ドメイン競争になじまないのだ。インターネットを使っている人類は名前に力が宿っているような錯覚をもっていると思う。長期的に見れば力の源泉は局所的なエントロピーの減少にすぎないから、名前にこだわるドメイン競争は無意味といえるだろう。
人類が愚かにもその領土紛争を繰り返している間に、インフルエンザや癌、さまざまな感染症は全ての哺乳類をはじめとする生命の存在領域を奪うだろう。ツボカビが爬虫類の生命を簡単に奪うのも同様な傾向だろう。
生存できるわずかな隙間、そのニッチになんとか生き延びるために人類は苦闘している。インターネットでドメイン競争をしているうちにそれぞれのドメインにあるサイトはウイルスで汚染されているのだ。インターネットの世界と自然の世界のアナロジーは尽きるところがない。そしてこれらを表現する言葉が正しく事態を表現している。だれが表現を考え出したかはわからないが言葉の不思議な力が事態を理解可能にしている。
2チャンネルでひろゆきの自演と思われるドメイン差し押さえが騒がれているが、ドメインを世界規模で考えるよい機会だと思う。インターネットは鳥インフルエンザと同様に国境がない。そこに本質があると言えよう。ドメイン競争になじまないのだ。インターネットを使っている人類は名前に力が宿っているような錯覚をもっていると思う。長期的に見れば力の源泉は局所的なエントロピーの減少にすぎないから、名前にこだわるドメイン競争は無意味といえるだろう。
2007-01-13
エンタングルメント
理化学研究所が発表した量子コンピュータの要素技術となるべき回路の構成の内容は実に不思議なものだ。こういった知恵が出てくるためには量子状態と古典的状態にかかわる深い理解が必要だと思うが汎用性のある実用的な回路設計が出現したことで今後の量子コンピュータへの応用が期待される。
特に特定の量子状態の操作は、3つの微小な超伝導デバイスにより構成され、3つの超伝導電子対の方が、電子1つ1つの場合よりも簡単となるそうだ。こうした「巨視的』な量子状態を制御できれば、量子物理学を特徴づけるエンタングルメント(あたかも3つの箱が1つの構成物の一部であるかのように、同じ情報を共有するという事態で、それぞれの箱が1つの量子的な粒子としてふるまっている)のような現象を巨視的なレベルで検証することが可能になるということだそうだ。
特に特定の量子状態の操作は、3つの微小な超伝導デバイスにより構成され、3つの超伝導電子対の方が、電子1つ1つの場合よりも簡単となるそうだ。こうした「巨視的』な量子状態を制御できれば、量子物理学を特徴づけるエンタングルメント(あたかも3つの箱が1つの構成物の一部であるかのように、同じ情報を共有するという事態で、それぞれの箱が1つの量子的な粒子としてふるまっている)のような現象を巨視的なレベルで検証することが可能になるということだそうだ。
2007-01-09
オブジェクティブリダクション
ロジャーペンローズのオブジェクティブリダクション(OR)に関する議論は重ねあわされた二つの時空構造のうちどちらかが支配的になり、状態はどちらかの古典的時空構造へ落ち込む瞬間に関するものだ。分岐しつつある時空構造の内部的な幾何学が四次元時空計量のうえの「シンプレクティック測度」として表されるということらしい。分裂は時間と空間にまたがる分裂であり、絶対単位系でS=Eの式で与えられる。(Sは分裂の大きさ、Eは重ねあわされた時空構造の間の差に対応する重力場の自己エネルギー)
ペンローズの主張の核心はこれらの量子力学的スケールが古典力学的スケールまで拡大するという点だ。われわれ人類を含む生物全てに等しく意識をもたらすマイクロチューブルに関する洞察はたしかに魅力にあふれる主張といえる。
ペンローズの主張の核心はこれらの量子力学的スケールが古典力学的スケールまで拡大するという点だ。われわれ人類を含む生物全てに等しく意識をもたらすマイクロチューブルに関する洞察はたしかに魅力にあふれる主張といえる。
2007-01-01
言行不一致の必然
わが国の首脳は言行一致を目指すと言ったようだ。
しかし、いろいろと対立することの多い認知科学と精神分析でめずらしく意見の一致を見ているのが「人間の心は一様ではない」という点だそうだ。(吉田信彌「事故と心理」)
近代民主主義では言行一致は徳目であるとともに前提でもある。ところが、心は一様ではないとの人間観は、言行不一致ということである。明晰な自覚のもとで発した言葉でもそれと乖離した行動を人はしてしまう。うそをつくわけではなく、そう行動せざるをえない一面が多々あるというのが、精神分析を含む人間に関する近年の研究が達した一つの結論だそうだ。
昨年の交通事故の激減はこれらの研究の成果のひとつともいえるだろうが、日頃厳密に振り返ることの少ない自らの行動を考えても、そうなんだろうなという感想と、しかしそれでも目指すべきは言行の一致だという思いとが交錯する。
しかし、いろいろと対立することの多い認知科学と精神分析でめずらしく意見の一致を見ているのが「人間の心は一様ではない」という点だそうだ。(吉田信彌「事故と心理」)
近代民主主義では言行一致は徳目であるとともに前提でもある。ところが、心は一様ではないとの人間観は、言行不一致ということである。明晰な自覚のもとで発した言葉でもそれと乖離した行動を人はしてしまう。うそをつくわけではなく、そう行動せざるをえない一面が多々あるというのが、精神分析を含む人間に関する近年の研究が達した一つの結論だそうだ。
昨年の交通事故の激減はこれらの研究の成果のひとつともいえるだろうが、日頃厳密に振り返ることの少ない自らの行動を考えても、そうなんだろうなという感想と、しかしそれでも目指すべきは言行の一致だという思いとが交錯する。
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